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八軒家は、古くは四天王寺詣や熊野詣の上陸地、江戸時代には三十石船の発着場として、古くから大阪の水上交通の拠点として賑わいました。『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんの大阪の旅も八軒家浜から始まっています。今回は、2008年4月に「八軒家浜」船着場が整備されたことを記念して、八軒家浜の周辺をご紹介いたします。 <参考文献> 『大阪史蹟辞典』三善貞司編、清文堂出版、1986 『大阪を歩く −史跡名所探訪 大阪市内編−』林豊著、東方出版、20007 『大阪名所むかし案内 −絵とき「摂津名所図会」−』 本渡章著、創元社、2006 『上方風俗大阪の名所図会を読む』宗政五十緒編、東京堂出版、2000 『なにわ大阪今と昔 −絵解き案内−』宗政五十緒・西野由紀著、小学館、2000 |
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「八軒屋」 古来、京都と大阪を結ぶ陸路は大変不便で、江戸・京都方面から大阪に入る最も便利な交通手段が、三十石船と呼ばれる乗合船に乗り、伏見から大阪まで淀川を下るルートでした。八軒家は、大阪の水の入口として栄え、明治に鉄道が開通するまで、その賑わいは続きました。現在は、京阪天満橋駅の土佐堀通りを挟んだ向かい側にある昆布店の前に"八軒家船着場の跡"の石碑が建っています。 この画像の詳しい情報をみる |
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「摂津名所図会4上」 八軒屋 このあたりはもともと大江岸(おおえのきし)、渡辺岸(わたなべのきし)と呼ばれていました。平安時代の歌人、能因法師の歌に、「渡辺や大江の岸に宿りして 雲井にみゆる生駒山かな」とあります。この地に渡辺綱とその郎党が居住したことから渡辺といいました。近くには、熊野王子の一番目「渡辺(窪津)王子」が置かれ、熊野街道の陸路のスタート地点でもあります。 この画像の詳しい情報をみる |
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「浪華大川四季の勝景」 交通の要所であった八軒家は、往来する人々も多種多様でした。乗降する船客で混み合う発着場はもとより、通りに出れば宿を探す旅客、それに手招きする旅籠の呼び込みや饅頭、ういろうなどの物売りがおり、編み笠をかぶった伊勢参りのグループから、厨子を背負って鉦(かね)を手にした坊さん、胸に筥(はこ)を下げて寄付を募る神官まで、行き交う人は絶え間なくいつも賑やかであったといいます。 この画像の詳しい情報をみる |
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「浪花風景」 八軒家 三十石船は、長さ五丈六尺(約17メートル)幅八尺三寸(約2.5メートル)の船で、米三十石が積めるのでこの名がありました。船頭は4人、乗客定員は28人で、満員の時にはすし詰めになりました。伏見から大阪への下り船は半日ほど、伏見へ向かう上り船は流れに逆らうため一日かかりました。寝ている間に到着する夜船は特に人気がありました。 この画像の詳しい情報をみる |
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「くらわんか船トくらわんか茶碗」 三十石船を目当てに、酒や汁・餅を売る「くらわんか船」は有名です。三十石船が枚方にさしかかると船に寄ってきて、「飯くらわんか、餅くらわんか」と横柄乱暴な言葉を使って押売りしていたことから、「くらわんか船」と呼ばれました。このとき、ご飯や、汁を入れて客に渡したのが「くらわんか茶碗」です。 この画像の詳しい情報をみる |
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「大川便覧 −乗陸必携−」 浪華三大橋 江戸時代以来、天神橋・天満橋・難波橋は「浪華三大橋」と呼ばれ、親しまれてきました。橋の界隈は蔵屋敷が多く、それを取り巻く問屋街は繁栄を極め、また行楽地としても賑わい、大川端は夕涼みの名所として知られました。 この画像の詳しい情報をみる |
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「浪花大阪名所」 天満橋 この辺りから大阪城がきれいに見えたといいます。大阪天満宮(天満天神)が管理する橋だったことから、天満橋、天神橋と名づけられました。明治18年の大洪水を契機に鉄橋に改められ、昭和10年に現在の鋼桁橋に架け替えられました。 この画像の詳しい情報をみる |
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「天神橋/天満天神社」 大阪天満宮へと続く天神橋は、江戸時代、大阪で一番長い橋として有名でした。また水運の便がよいこの岸には青物市がたっていました。天満の青物市場は、堂島米市場と雑喉場(ざこば)の魚市場とともに、大阪の三大市といわれています。またこの三大市場すべてが天満天神社の氏子町でもありました。 この画像の詳しい情報をみる |
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「難波橋」 浪華三大橋の中で、一番西側に位置する難波橋は、橋の四方に阿吽のライオンの石像があることから「ライオン橋」の名で親しまれています。現在の難波橋は、大正4年に堺筋の市電開通に伴い、架け替えられました。 この画像の詳しい情報をみる |
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