大阪市立図書館:福島区に関するよくある質問と回答
大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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福島区に関するよくある質問と回答
野田城について
『わがまち史跡めぐり』*1によると、野田城は、享録4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は、野田城に篭城し織田軍と戦うが落城。のちにこの城は毛利水軍と戦う織田軍の重要拠点になります。その後、歴史から忘れ去られ、現在は痕跡を見つけることはできません。明治の初め、「城之内」「弓場」という地名が残されていたことから、玉川付近にあったと推察されており、地下鉄千日前線「玉川駅」出口すぐに「野田城跡」の石碑が建てられています。 『野田:創立100年記念誌』*2に、詳細な記述があります。『大阪春秋 80号 野田・福島』*3に「幻の野田城を探る」と題して、渡辺武氏によるまとまった考察があります。他の小冊子と合冊再版された『わがふるさと』*4の「野田城」(1977刊)に少し手を入れたものです。
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【参考文献】
*1『わがまち史跡めぐり』福島区役所企画総務課 2001 書誌ID 0010155989
*2『野田:創立100年記念誌』大阪市立野田小学校創立100周年記念誌編集委員会 2003 書誌ID 0010528955
*3『大阪春秋 80号 野田・福島』大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706
*4『わがふるさと』大阪福島ライオンズクラブ 1984 書誌ID 0080196783
『福島区歴史と史跡探訪』大阪都市協会編 福島区青少年対策連絡協議会 1984 書誌ID 0080217596
『福島区史』大阪都市協会編 福島区政施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p42〜45
『大阪府全志 巻2』井上正雄著 清文堂出版 1985 (大正11年刊の復刻) 書誌ID 0000172307 p1198
『六十周年記念第一西野田郷土誌』乾 市松著 教育後援会 1935 書誌ID 0000412541 p273〜279、302
「福島区ホームページ」http://www.city.osaka.lg.jp/fukushima/「名所旧跡」
野田藤について
野田の辺りは古来より藤が群生しており、室町幕府二代将軍足利義詮が住吉詣での途中訪れて、藤を和歌に詠み、豊臣秀吉も藤の花見に訪れ茶会を開いたと伝えられています。江戸時代、一時期衰退しますが、後に再び藤の名所となり、江戸時代に出版された『摂津名所図会 1』*1にも取り上げられています。そのp367に茶店・料理屋の賑わいが描かれ、p372〜373に当時の野田の絵図も出ています。
明治以降衰え、昭和20年の空襲でほぼ全滅しますが、その後の再生運動により、今では、福島区内各所で野田藤を見ることができるようになりました。福島区の「区の花」にも制定されました。玉川2丁目にある春日社祠の境内に「野田藤の跡」の石碑が建てられています。
参考文献としては、『野田:創立100周年記念誌』*2に、網羅的にまとめられた詳細な記述があります。 『玉川:創立百周年記念誌』*3にも、歴史と戦後の復元について、まとまった記述があります。 『野田藤と円満寺文書』*4には、野田藤に関する文献・記録が紹介されています。 『わがふるさと』*5に収録されている「野田藤とその歴史」には、概要がわかりやすくまとめられています。
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【参考文献】
春日神社のすぐ近くに、野田藤の歴史資料と藤の和歌などを集めた「のだふじ史料室」*6もあり、日時限定で公開しています。
*1『摂津名所図会 1』秋里籬島著 新典社 1984 書誌 ID 0090004723
*2『野田:創立100周年記念誌』大阪市立野田小学校創立100周年記念事業委員会 2003 書誌ID 0010528955
*3『玉川 : 創立百周年記念誌 』大阪市立玉川小学校創立100周年記念事業委員会 1974 書誌ID 0080196481
*4『野田藤と円満寺文書』内田九州男・和田義久編 円満寺 2003 書誌ID 0010576459
*5『わがふるさと』大阪ライオンズクラブ 1984 書誌ID 0080196783
*6「野田藤」 (のだふじ史料室主宰者のHP)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nfuji/
『福島区歴史と史跡探訪』大阪都市協会編 福島区青少年対策連絡協議会 1984 書誌ID 0080217596
『わがまち史跡めぐり』福島区役所企画総務課 2001 書誌ID 0010155989
『大阪府全志 巻2』井上正雄著 清文堂出版 1985 (大正11年刊の復刻) 書誌ID 0000172307
『大阪府誌 第5編』大阪府編 思文閣 1970 (明治36年刊の復刻) 書誌ID 0000172300
『六十周年記念第一西野田郷土誌』乾 市松著 教育後援会 1935 書誌ID 0000412541 p292〜301
「福島区ホームページ」http://www.city.osaka.lg.jp/fukushima/「名所旧跡」
羽間(はざま)文庫について
海老江の羽間平三郎氏(昭和47年没)が、江戸時代の町人天文学者間重富(はざましげとみ)らゆかりの天文関係資料を中心に、近世大阪の郷土資料や近江の蒲生氏に関する資料などを生涯かけて収集保存し、羽間文庫と名づけました。『大阪春秋 80号 野田・福島』*1には、「羽間文庫―文庫に生涯をかけた夫婦―」と題して、資料の収集・保存に関する経緯や苦労が記されています。『大阪の歴史 68号』*2「天文学者としての間重富」によると、昭和45年には文庫資料が大阪府指定有形文化財に指定されました。その後、平成8年から11年にかけて天文資料を含む文庫資料が一括して大阪市立博物館(現大阪歴史博物館)に寄贈されました。
寄贈記念の展示目録『羽間文庫』*3は、羽間文庫の収蔵品の数々を写真入りで紹介し、重富の業績、当時の天文学の動向について、わかりやすく解説しています。それによると、間重富(はざましげとみ)は、宝暦6年(1756年)十一屋という質屋の第6子として生まれましたが、兄たちが夭折したため、第7代目を継ぎました。初め、姓は羽間でしたが、のちに間と改めました。麻田剛立の門下で天文学を学び、幕府に命ぜられて寛政の改暦事業に従事、大坂に帰って以後も、長堀冨田屋橋北詰(現在の西区)の自宅で御用観測を続けました。重富の子、重新も家業と観測を引き継ぎ、その後、重遠・重明と四代にわたって御用観測が行われました。「大阪春秋80号 野田・福島」*1によると、明治になって相続二子夭折のため、跡継ぎが絶えました。
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【参考文献】
*1 『大坂春秋 80号 野田・福島』大阪春秋社 1995 書誌ID 0000483706 p30〜p34
*2 『大阪の歴史 68号』大阪市史料調査会 2006 書誌ID 5111269812 p1〜p17
*3 『羽間文庫』大阪市立博物館編 1999 書誌ID 0000775833
『福島区史』大阪都市協会編 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会1993書誌ID 0070022168 p423〜p427
『わがふるさと』大阪福島ライオンズクラブ 1984 書誌ID0080196783
(福島区内史跡めぐりのしおりを合冊再版したもの)より「羽間文庫」羽間平安著 1976
『大阪史蹟事典』三好貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p513〜p514
『上方 : 郷土研究 2(上)』上方郷土研究会編 新和出版社 1969 書誌ID 0070022168 p176〜p183
作家・田辺聖子の生家はどのあたりにあったのか
『福島区史』*1に田辺聖子さんが寄稿した「戦火に消えたわが町」という一文が紹介されています。それによると「福島西通の交差点(昔は5丁目といったが)から南の堂島大橋に至る、ちょうどまん中ほど、電車みちに面した田辺写真館が、私の生家であった。」とのことです。
自叙伝『田辺写真館が見た“昭和”』*2には、「国道2号線を福島西通りで左折、200メートルばかりいった左側にあった。この辺一帯は昭和20年6月1日の空襲であとかたもなく、一望の焦土となったが、戦前はいろんな商家が市電通りに面していて賑やかであった。」と述べられています。同書には当時の様子を伝える写真も多く収められています。p58に、昭和の始め、完成前の田辺写真館の写真が掲載され、「前の通りの市電も敷設中」との説明あり。p171に掲載されている父、貫一さんの名刺には福島区上福島南3丁目と印刷されています。
昭和12年発行の地図『最新の此花区・都市計画路線入』*3に、田辺写真館の場所が記されており、住所は上福島南3丁目40と表記されています。(『福島区史』によると昭和19年と昭和50年に町名改正が実施されました。この地域は現在の福島区福島3丁目にあたります。なお、昭和18年に福島区が発足するまでは此花区でした。)
また、フリーペーパー『野田+福島』7号(2007年1月)*4は野田・福島の文学を特集しており、インタビュー「田辺聖子さんが語る福島のまち」と、生家のだいたいの位置が確認できる地図が載っています。
当時の様子を伝える随筆には次のようなものがあります。
「わが街の歳月」の中より「福島」(『歳月切符』*5および『田辺聖子全集23巻』*6に収録)
「往時茫々」*7(『日本語のこころ』に収録)
また、『田辺聖子の世界展』*8には弟さん・妹さんとの対談が掲載されています。
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【参考文献】
*1 『福島区史』 大阪都市協会編 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会1993書誌ID 0070022168 p136〜138
*2 『田辺写真館が見た“昭和”』田辺聖子著 文芸春秋 2005 書誌ID 0010980870
*3 『最新の此花区・都市計画路線入』夕刊大阪新聞社 1937(書誌ID 0080350027の複製 郷土資料室地図ケースにあり)
*4 『野田+福島』7号 都市大阪創生研究会 2007(郷土資料室内にファイル)
また、都市大阪創生研究会のホームページからもPDF形式で見ることができます。
http://www.osakacity.or.jp/share/society.html(2011年5月25日確認)
*5 『歳月切符』田辺聖子著 筑摩書房 1982 書誌ID 0070003502 p171〜179
*6 『田辺聖子全集23巻』田辺聖子著 集英社 2006 書誌ID 0011121913 p477〜484
*7 『日本語のこころ』 日本エッセイスト・クラブ編 文芸春秋 2000 書誌ID 0000815234 p194〜200
*8 『田辺聖子の世界展』p18〜p25「父母のいませしころ」田辺企画編 田辺聖子の世界展実行委員会 2006 書誌ID 0011369864
『大阪春秋49号 おおさかの天満宮と天神信仰』 p126〜127 「おおさかの女26 田辺聖子さんを訪ねて」大阪春秋社 1987 書誌ID 0070031274
『大阪春秋51号 大阪写真界小史』 p86〜88 「田辺写真館なるものありき」大阪春秋社 1987 書誌ID 0000452766
松瀬青々(まつせせいせい)について
『大阪の俳人たち2』*1によると、松瀬青々は本名を松瀬弥三郎といい、1869(明治2)年、大川町(現大阪市中央区北浜)に生まれました。現在その地には、「松瀬青々生誕地碑」が建っています。生家は薪炭商から貿易まで手広く営んでいましたが、家業を嫌い、小学校を卒業すると、漢詩、数学、書、和歌などを学びました。1895(明治28)年、第一銀行に入行し、この頃から俳句を学び始めました。俳誌『ホトトギス』などに投句し、高浜虚子や正岡子規と出会います。1899(明治32)年、上京して『ホトトギス』の編集にあたりますが、翌1900(明治33)年には大阪にもどります。大阪では、朝日新聞社に入社し、朝日俳壇を担当しました。翌1901(明治34)年、青々は俳誌『宝船』(のちに『倦鳥(けんちょう)』と改題)を創刊し、没年までこれを主宰しました。また、句集『妻木』などを刊行し、関西俳壇の中心となりました。
1906(明治39)年から1921(大正10)年まで、福島区海老江に住み、地元で句会を開催しました。『福島区史』*2、『南桂寺と海老江』*3には、海老江4丁目の、旧宅跡にある「松瀬青々旧跡」の碑、南桂寺境内にある、青々の門人たちが建立した「青々先生」の碑について記載されています。青々は、海老江から天王寺、高師浜(たかしのはま)と移り住み、1937(昭和12)年亡くなっています。生涯については『評伝松瀬青々』*4に詳しく書かれています。
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【参考文献】
*1 『大阪の俳人たち2』大阪俳句史研究会編 和泉書院 1991 書誌ID 0000196701 p1~26
*2 『福島区史』大阪都市協会編集 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0070022168 p418~419
*3 『南桂寺と海老江』奥林享著 南桂寺 1997 書誌ID 0000635186 p77~78
*4 『評伝松瀬青々』青木茂夫著 俳句研究社 1972 書誌ID 0010189081
『俳人松瀬青々』堀古蝶著 邑書林 1993 書誌ID 0000363238