大阪市立図書館:中央区に関するよくある質問と回答
大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
⇒各区名の一覧はこちらです
⇒分野別の一覧はこちらです
中央区に関するよくある質問と回答
こどもむけに書かれた、大阪城の本はありますか
『大阪城ものがたり』*1には、築城から大坂冬の陣・夏の陣までのことが、物語風に書かれています。巻末には、簡単な年表もあります。『大阪城-天下一の名城』*2には、築城をはじめ、内部の様子などがわかりやすい図や絵を使って細かく説明されています。『歴史と文化の町たんけん 4大阪をたずねる』*3にも1997年の大改修までのことが、カラー写真とともに短く説明されています。また、『大阪城』*4、『大阪城の魅力-歴史の宝庫』*5などの写真集では、大阪城の姿がご覧いただけます。
-
【参考文献】
*1『大阪城ものがたり』 藤原一生原作 教育出版センター 1983 書誌ID 0070006644
*2『大阪城-天下一の名城』 宮上茂隆著 草思社 1984 書誌ID 0000190090
*3『歴史と文化の町たんけん 4大阪をたずねる』 三田村信行編著 あすなろ書房 2003 書誌ID 0010494973
*4『大阪城』 岡本良一編著 清文堂出版 1983 書誌ID 0000164394
*5『大阪城の魅力-歴史の宝庫』 登野城弘著 淡交社 1994 書誌ID 0000395164
『ぼくらの大阪府』 谷口豊編著 ポプラ社 1984 書誌ID 0070006645
『史跡と人物でつづる大阪府の歴史』 大阪の史跡と人物をたずねる会編著 光文書院 1981 書誌ID 0000227211
『私たちの日本史 4江戸と大阪』 岡田章雄著 偕成社 1986 書誌ID 0070044251
「大坂」が「大阪」になったのはなぜですか
簡便にまとめて説明している資料に、『大阪の歴史 6号』*1の「みおつくし 大坂と大阪」があります。『大阪の歴史 56号』*2の口絵と解説も参考になります。これらの資料からは、次のようなことがわかります。
江戸時代には、「大坂」と書くことが普通でしたが、「大阪」と書くこともありました。その理由についてよく引用されるのが、文化5年(1808)に刊行された『摂葉落穂集』で、坂は不吉な文字として忌み嫌う人もおり、阪をもちいる人もいたことが書かれています。もともと坂と阪は同字で、阪から坂の字が生まれたということもあり、1868年に大阪府が設置されてからも混用されていましたが、明治10年代には「大阪」が一般的になりました。
-
【参考文献】
*1『大阪の歴史 6号』 大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1982 書誌ID 5100000970
*2『大阪の歴史 56号』 大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 2000 書誌ID 5100209736
『大阪府史 7巻』 大阪府史編集専門委員会編集 大阪府 1989 書誌ID 0070004804
『大阪の歴史-史跡めぐり』 岡本良一著 岩波書店 1989 書誌ID 0070008258
『大阪の大疑問』 先崎仁編著 扶桑社 1998 書誌ID 0000681079
道頓堀の名の由来について
道頓堀の名は、『角川日本地名大辞典 27 大阪府』*1によりますと「慶長17年に豊臣家から
新川奉行を命じられた平野郷の成安道頓により起工されました。しかし道頓は大坂夏の陣に
参加して戦死し、徒弟の安井久兵衛道卜・平野次郎兵衛らによって、元和元年に完成した。
当初は新川と呼ばれていたが、当時の大坂城主松平忠明が道頓の死を悼み、道頓堀と命名した」
ことからつけられたとあります。
しかし、昭和40年に安井道卜の子孫安井朝雄氏が道頓堀の所有権を巡って起こした「道頓堀裁判」で判決が出されるまでは、安井道頓という架空の人物が私財を投じて掘り始めたという通説が広く信じられ、日本橋北詰に大正4年に建立された「贈従五位安井道頓 安井道卜起功碑」にもその旨が刻まれています。この裁判については、『道頓堀裁判』*2に詳しく説明されています。また、どのようにして安井道頓という人物が作られ、通説として定着したのかという過程については、『大阪春秋 4号 御堂筋あれこれ』*3所収の佐古慶三「新堀奉行成安道頓伝p129〜137の中で詳しく述べられています。
-
【参考文献】
*1『角川日本地名大辞典 27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983
書誌ID 0000184865 p818
*2『道頓堀裁判』牧 英正著 岩波書店 1993 書誌ID 0000338003
*3 『大阪春秋4号 御堂筋あれこれ』 大阪春秋社 1974 書誌ID 0090013177
『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
『安井家文書』 (大阪市史史料 20輯) 大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1987
書誌ID 0000619824
中村浩 「安井道頓は実在せず −道頓堀川と道頓−」 『大阪春秋 19号 大阪の橋と川』
1979 書誌ID 0070052023
船場汁について知りたい
『日本国語大辞典 8巻』*1によると、船場汁とは、「塩鯖(さば)の頭や中骨と短冊に切った大根を入れて作った潮汁(うしおじる)」のことを指し、「大阪の船場商人が作った所からの名ともいう」とあります。
かつて商都大阪の中心であり奉公人を多く抱えていた船場の商家の食生活は、「朝粥や昼一菜に夕茶漬け」といわれる、つましいものでした。日常は野菜本位のお惣菜で、月に2回だけ魚がつきました。その塩鯖や塩鮭を食べた後の頭やアラを出汁にして短冊にした大根を煮たのが船場汁で、いわば廃物利用の食物です。(塩鯖一本で十人前のおかずになる、などとして魚を全部使っている例もありますが、これも頭から中骨まで使い切る無駄のない料理です)。
『たべもの語源辞典』*2によると船場汁は200余年前には、千羽(せんば)・千羽煎(せんばいり)・煎葉煮(せんばに)などとよばれ、煎り鳥に青物を取り合わせて作る手軽な鳥料理でした。それが、様々な魚や野菜が用いられるようになり、魚類も塩粕漬・味噌漬・ぬか漬などにしたものを用いるというように、塩漬の魚を汁で煮た料理へと変化していったようです。また、その名も「船場煮」から、汁の多いものを「船場汁」とも呼ぶようになりました。(現在も、資料により船場煮、船場汁の両方の名称が使われています。)
『大阪歳時記』*3には「薄い塩味に、鯖の脂が適度に加わり、何杯でもお代わりが出来るし、それで相当に腹が張るので、しぜん、飯のほうはそれほど食べられない。旨い上に、至極経済的でもある。一名、丁稚汁ともいい、もののあわれさを感じさせる。」とあり、当時の様子がうかがわれます。
古くは、西鶴の『好色五人女』*4(貞享3年板 1680)巻1にも「金じゃくし片手に、目黒のせんば煮を盛る時、骨かしらをえりて、清十郎にと気をつくる」と、船場煮の名称が出てきます。
作り方は、『味のふるさと 19 大阪の味』*5 、『大阪府の郷土料理』*6 などに詳しく、『大阪府の郷土料理』*6、『調理用語辞典』*7にはカラー写真が掲載されています。
-
【参考文献】
*1 『日本国語大辞典:第2版 8巻』小学館国語辞典編集部,日本国語大辞典第二版編集委員会編集 小学館 2001 書誌ID 0010116945 p.153
*2 『たべもの語源辞典』清水桂一編 東京堂出版 1980 書誌ID 0070026192 p117-118
*3 『大阪歳時記』長谷川幸延著 読売新聞社 1971 書誌ID 0000328214 p266
*4 『日本古典文学全集 38 井原西鶴集 1』 小学館 1977 書誌ID 0000237593 p316
*5 『味のふるさと 19 大阪の味』 角川書店 1978 書誌ID 0070115329 p35
*6 『大阪府の郷土料理』上島幸子ほか著 同文書院 1988 書誌ID 0000164455 p13-14
*7 『調理用語辞典 改訂』全国調理師養成施設協会編 全国調理師養成施設協会 調理栄養教育公社(発売) 1998 書誌ID 0000715700 p.657
『大阪方言事典』牧村史陽編 杉本書店 1955 書誌ID 0090003730 p381
『大阪ことば事典』牧村史陽編 講談社 1979 書誌ID 0070023142 p386
『日本の味探究事典』岡田哲編 東京堂出版 1996 書誌ID 0000510364 p131
『上方食談』石毛直道著 小学館 2000 書誌ID 0000833036 p82-83
『現代日本料理法総覧 上 あ〜そろ』清水桂一編 第一出版 1977 書誌ID 0080038333 p311
『定本船場ものがたり』香村菊雄著 創元社 1986 書誌ID 0000164020 p39-40
『日本の食生活全集 27 聞き書 大阪の食事』 農山漁村文化協会 1991 書誌ID 0000185711 p76, p98
『かんさい味紀行』朝日新聞大阪本社編 かもがわ出版 1993 書誌ID 0000367359 p8-9
江戸時代に島之内にあった銅吹所について
『中央区史跡文化事典』*1の「住友銅吹所跡」という項目によりますと「島之内1丁目は、寛永年間(一六四〇年頃)住友家2代・友以(とももち)によって開かれた銅精錬所があった一帯である。このあたりは東横堀川、西横堀川、長堀川など、舟運(しゅううん)の利便性を活用して多くの銅吹所があった。江戸時代、日本は世界有数の銅産国であり、全国からこの地に粗銅が集まった。住友銅吹所は日本最大の銅精錬所で、日本の生産量の3分の1を精錬。」とあります。住友銅吹所の設立年は『大阪史蹟辞典』*2には1636年(寛永十三年)とあります。
大阪(大坂)と銅の関係については『よみがえる銅』*3に、「銅鉱石には銀が含まれることが多かったので『南蛮吹き』とよばれる技術で銀と銅が分けられ、精錬された。」「銅は重要輸出品のため幕府の統制下にあり、そのための役所として銅座が設置されていた時期もある。」「明治になって幕府の統制がなくなり、住友銅吹所は四国の別子銅山へと移転した。しかし、大阪には貨幣の製造場である造幣寮(後の造幣局)が作られ銅関連の企業や工場もたくさんあった。」と書かれています。
銅座は中央区久宝寺町の大阪市立銅座幼稚園にその名を残しています。また、住友銅吹所跡地は後に住友家居宅などに使用され、現在は島之内1丁目6番7号に「住友銅吹所跡」という石碑が建っています。
-
【参考文献】
*1『中央区史跡文化事典』大阪市中央区役所 2008 書誌ID 0011648821
*2『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*3『よみがえる銅』大阪歴史博物館偏 2003 書誌ID 0010716742