大阪市立図書館:港区に関するよくある質問と回答
大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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港区に関するよくある質問と回答
港区の渡船について知りたい
現在、大阪市内には渡船場が8か所あり、そのうち港区には2か所(天保山渡と甚兵衛渡)があります。
渡船場の歴史については、『港区誌』*1や『大正区史』*2に書かれています。
また、『大阪市渡船場マップ』*3には、歴史や渡船場跡のほかに、現在の渡船場の地図・時刻表も書かれています。
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【参考文献】
*1 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951
*2 『大正区史』 大阪都市協会編 大正区制五十周年記念事業委員会 1983 書誌ID 0070059807
*3 『大阪市渡船場マップ』 大阪市土木技術協会編 大阪市建設局渡船事務所 2000 書誌ID 0000818246
大阪市の築港事業の歴史について知りたい
最も詳しいのは、『大阪港史』*2・*3・*4です。『大阪開港100年祭行事誌』*6では、写真のほかに、簡単な歴史が表になっており、見やすくなっております。
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【参考文献】
*1 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951
*2 『大阪港史 1巻』 大阪市港湾局 1959 書誌ID 0070051521
*3 『大阪港史 2巻』 大阪市港湾局 1961 書誌ID 0070051522
*4 『大阪港史 3巻』 大阪市港湾局 1964 書誌ID 0070051523
*5 『大阪築港誌』 大阪市築港事務所 1906 書誌ID 0080237656
*6 『大阪開港100年祭行事誌』 大阪市・大阪開港100年記念祭委員会共編 大阪市 [1968跋] 書誌ID 0080258971
日本一低い山・天保山について
『みなと今と昔』*1によれば、天保山は「天保2年……安治川の浚渫(しゅんせつ)が行われ、……この時、浚渫の土砂を積み上げて安治川河口部に長さ約200mの防波堤が築かれ、天保山と呼ばれた。当時の規模は高さ約20m、長径約200mほどであり、亀甲状の形態を示すものであった」とのことです。『大阪の大疑問』*2によれば、幕末には黒船が来航し見物人が押しかけたとのことです。
今では高さ4.53メートルの三角点があるだけですが、「日本一の低山」として『なるほど地図帳』*3にも紹介されており、港区の名所のひとつとなっています。
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【参考文献】
*1 『みなと今と昔』 大阪市港区役所区民室 1993 書誌ID 0000310181 p19
*2 『大阪の大疑問』 先崎仁・前垣和義 共編著 扶桑社 1998 書誌ID 0000681079 p262
*3 『なるほど地図帳』 昭文社 2006 書誌ID 0011134902 p99
波除のいわれについて
波除の地名は波除山からくるとあります。現在は存在しないこの山は、昔は海辺の近くにあって洪水の高波をふせぎ除く山とされており、波除山と呼ばれるようになりました。*1
この山は、天和3年(1683)、幕命をうけて治水対策に乗り出した河村瑞賢が、幅約73m、長さ約1.6kmの新しい川を掘って水流を海へ一直線に導く工事を行った際に出た土砂を、川の南端に積み上げたものです。その高さは約15mにもなり、始めは「新山」「新川築山」などといわれておりましたが、「波除山」あるいは開削者の名をとって「瑞賢山」と呼ばれるようになり、松の木が植えられて航行する船の目標となりました。しかしこの山は幕末には海辺から遠ざかってしまい田圃(たんぼ)の中の丘となってしまったといった経過をたどっています。*2
波除山は明治末期まで残っていたとのことです。*3
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【参考文献】
*1 『波除山とその歴史的風景』北田 功 1983 書誌ID 0080191732 p2
*2 『港区の歴史と風景』大阪市港区役所総務課 1993 書誌ID 0000316817 p9
*3 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p6
市電の築港線について
『港区誌』*1によると、「大阪港と築港埋立地の繁栄を助長するために本市最初の市電が明治36年9月12日西区花園橋から築港桟橋に至る5.069粁間の運転を開始した。これがいわゆる市電敷設の第一期線と称せられる築港線で、当時開催中の第5回内国勧業博覧会に間に合すべく工を起し8月3日竣工した」とあります。第5回内国勧業博覧会は、『大阪市政百年の歩み』*2によると、天王寺公園、新世界一帯を会場とし、明治36年3月1日から5か月間開催されました。来場者は435万人(当時の本市人口約100万人)もありました。第5回内国勧業博覧会会期終了に続いて、築港大桟橋一般公開が8月に行われ、市電は9月から運転を開始し、都市交通の主役として機動網を拡張していきました。
また、『大阪市電』*3には、「電車は花園―築港桟橋間を両方から30分ごとに発車、線路は単線で途中市岡中学前の電気鉄道事務所の待避線で行き違い、所要26分であった。停留所は全部で10ヵ所、料金は区間制で4区に分け1区1銭、全線片道4銭であった」とあります。
『港区誌』*1によると、停留所は「花園橋―九条二番道路―境川町―市岡中学校前―磯路橋―夕凪橋―田中町―八幡屋堤防―三条通−築港桟橋」でした。
しかし、市電の敷設工事が第5回内国勧業博覧会には間に合わず、また大阪港築港工事が遅れていたため、実際は釣り客が多く、これらの人びとを運ぶ市電は「魚釣り電車」といわれたと『目で見る大阪市の100年 下巻』*4には書かれています。
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【参考文献】
*1 『港区誌』 大阪市港区役所編 大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p160
*2 『大阪市政百年の歩み』 大阪市総務局 1989 書誌ID 0000412228 p10,p51,52
*3 『大阪市電』 大阪市電編集委員会編 鉄道史資料保存会 1980 書誌ID 0070117955 p1
*4 『目で見る大阪市の100年 下巻』 郷土出版社 1998 書誌ID 0000706425 p24
市岡パラダイスについて
『港区誌』*1には「市岡パラダイスは市岡土地株式会社が経営地内に一万二千坪(桂町一帯)を画し、経費一百万円を投じて開設した娯楽遊園地で、大正十二年佐伯組の施工により、同一四年七月一日竣工開園した。・・・大劇場・映画館・演芸館、またスケート場・野外劇場・飛行塔・農園・小鳥園、或いは千人風呂の大浴槽をはじめトルコ風呂の設備があり、その斬新な趣向は人気を呼んで大阪の名所となった」と書かれています。『角川日本地名大辞典 大阪府』*2によると、桂町とは1927(昭和2)〜1968(昭和43)年の町名で、現在の磯路から弁天附近になります。園内中央部には直径30間(約55m)の池が設けられ、池の中に築かれた岩山からは人口の滝が落ち、5色のイルミネーションがほどこされました。大劇場は、ロサンゼルスのミリオン・ダラーシアター劇場の設計を採り入れ、延750坪、鉄筋3階建、定員1000人、総レンガ造りの屋上に設けられたネオンサインが有名でした。アイススケート場(北極館)は、滑走面積80坪、室内リンクの草分けで、ロシアのプロスケーターを招聘するなどアイススケートの普及に貢献しました。また、高さ18間(約30m)、東洋一をほこる飛行塔をはじめ、さまざまなアトラクションが設置され、子どもからおとなまですべての人が楽しめるレジャー施設でした。かつて一面の西瓜畑だった干拓地に忽然と出現した魅力あふれるパラダイス(楽園)は、当時の人々に喜びと驚嘆とをもって迎えられたことでしょう。『なにわの新名所(都市えはがきT)』*3『写真集 明治大正昭和大阪 上(ふるさとの想い出)』*4に写真があり、当時の様子を窺うことができます。
市岡パラダイスは1930(昭和5)年1月閉鎖されましたが、大劇場(パラダイス劇場)は戦後、港区一帯の地盤沈下対策としての盛土工事で撤去されるまで残っていました。
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【参考文献】
*1『港区誌』大阪市港区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000244951 p59〜60
*2『角川日本地名大辞典 27大阪府』角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p310
*3『なにわの新名所(都市えはがきT)』橋爪紳也著 東方出版 1997 書誌ID 0000184865 p28〜29
*4『写真集 明治大正昭和大阪 上(ふるさとの想い出)』国書刊行会 1985 書誌ID 0000330602 p92
『海遊都市』橋爪紳也著 白地社 1992 書誌ID 0000257519 p145〜147
『大阪春秋 63号 港区・大正区』大阪春秋社 1993 書誌ID 0070108805 p62〜64