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※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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生野区に関するよくある質問と回答

「御勝山(おかちやま)」について

 『大阪府全志』*1には、生野区と天王寺区とに「御勝山」が紹介されています。
 生野区にあるものは、もと岡山とよばれた古墳(勝山北三丁目にある御勝山古墳のこと)で徳川秀忠が大坂夏の陣のおり本陣をおき勝利を祝したことから「御勝山」と称されるようになったものです。『生野区誌』*2名所旧蹟の章、『郷土史生野』*3の創刊号・12号などに説明文があります。生野区役所のホームページ*4には、写真も紹介されています。
 天王寺区にあるものは、徳川家康が大坂夏の陣のおり本陣をおき茶臼山の合戦勝利を祝したので「御勝山」の名がうまれたものですが他の文献にその説明を見つけられませんでした。

【参考文献】
*1 『大阪府全志 1〜5 付図 索引 』井上正雄著 清文堂出版 1985-1986 書誌ID 0000172306-0000172312
*2 『生野区誌』生野区創設十周年記念事業実施委員会編 大阪市生野区役所 1953 書誌IID 0000244943
*3 『郷土史生野』郷土史生野刊行会 1982-1988 書誌ID 0090011434
*4
生野区役所のホームページ http://www.city.osaka.jp/ikuno/spot/hist_s.html
『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
『おおさか考古学百景 第5部2 御勝山古墳と茶臼山』 趙哲済『大阪日日新聞』2005.11.10
生野区役所ホームページトップhttp://www.city.osaka.jp/ikuno/index.html
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「つるのはし」について

 『生野区誌』*1名所旧蹟の章ほか複数の資料に、文献にでている日本最古の橋である猪甘津の橋の古跡として紹介されています。中でも『猪飼野郷土誌』*2は、つるのはし史跡公園完成を記念して刊行されたもので猪飼野の歴史とともにつるのはしについて詳しい説明があります。
 つるのはし史跡公園の所在地は、生野区桃谷三丁目で顕彰碑がたてられています。写真は、生野区役所のホームページ*3にも紹介されています。

【参考文献】
*1 『生野区誌』 生野区創設十周年記念事業実施委員会編 大阪市生野区役所 1953 書誌ID 0000244943
*2 『猪飼野郷土誌』 猪飼野郷土誌編集委員会 猪飼野保存会 1997 書誌ID 0000607782
*3
生野区役所のホームページ http://www.city.osaka.jp/ikuno/spot/hist_s.html
『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
『大阪春秋 37号 大阪の史跡と碑 続編』大阪春秋社 1983 書誌ID 0070054192
『大阪春秋 92号 おおさか環状線』大阪春秋社 1983 書誌ID 00006983
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田島のレンズについて

 『生野郷土史』*1に、田島のレンズは田島村の石田太次郎により1857年(安政4年)に創業されたと記述があります。1831年(天保2年)田島村の農家に生まれた石田太次郎は幼いころ足に怪我をし、家業を手伝うことができませんでした。そこで、丹波の国に赴きめがねの製造技術を習得しました。安政4年田島村に帰った石田太次郎は、村の人々にその技術を教えました。『生野の民話』*2によると1913年(大正2年)には、田島村で電力による眼鏡専門工場が初めて生まれ、その後住民の努力により当時日本一の眼鏡生産地になったとあります。
 さらに国内だけではなくアジア、欧米諸外国へも輸出するようになりました。田島神社の境内には、田島の人々を失業から救った石田太次郎の報徳碑が建てられ、毎年11月3日にはその功績をしのび、感謝祭が催されています。前掲の『生野郷土史』や『大阪春秋』*3には、田島レンズの研磨法や輸出額等についても記載されています。

【参考文献】
*1『生野郷土史』大阪市小学校教育研究会生野支部 1952 書誌ID 0080248423 p7〜9
*2『生野の民話』堀井守三編 [大阪市]生野区役所 2000 書誌ID 0000816588 p7〜8
*3『大阪春秋41号 大阪の伝統産業』大阪春秋社 1984 書誌ID 0090000392 p100〜103
『生野区誌』生野区創設十周年記念事業実施委員会編 大阪市生野区役所1953 書誌ID 0000244943 p145〜146
『東成郡誌』上巻 東成群役所編 名著出版 1972 書誌ID 0070093555 p494
『わがまち生野』生野区役所 [1997] 書誌ID 0000625207
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地名「源ヶ橋」の由来について

 今はもう暗渠となってありませんが、昔この辺りには猫間川という川が流れていました。百八十年ほど昔、江戸時代は文化の頃、猫間川の渡し守をしている「源さん(源兵衛)」という人がいました。この人は通行人から金品を強奪したり、法外な渡し料を要求したりする悪人でした。源さんには女房と男の子が一人いましたが、愛想をつかして出て行ってしまいました。何年もたったある日、舟の上で一人の若者を殺して荷物を取り上げた源さんは、その若者が自分の息子であることを知ります。さしもの源さんも深く悲しんで自分の行いを悔やみ、出家をして仏門に入りました。そして罪ほろぼしのために全財産を投げ打ち猫間川に橋をかけました。その橋は香りの良い伽羅という名木で造られていました。そのことを知った人たちは、源さんの名にちなんでその橋を「源ヶ橋」と名づけたということです。現在橋はなくなりましたが、地名となって残っています。

【参考文献】
『生野の民話』堀井守三編著 生野区役所 2000 書誌ID 0000816588 p29〜30
『あべの今昔物語』猿田博著 阿倍野今昔物語編集委員会 1995 書誌ID 0000485817 p75〜77
『あべの発見!』 阿倍野区役所 2005 書誌ID 0011145136 p38
『わがまち生野』 生野区役所 1997 書誌ID 0000625207 p19
生野区役所ホームページ、生野ものしり事典
http://www.city.osaka.jp/ikuno/about/know.html
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舎利寺の縁起について

 舎利寺は俗称で、正しくは南岳山舎利尊勝寺と言い、禅宗は黄檗宗の寺です。用明天皇の時、生野長者という富豪がいました。子どもが生まれましたが、いくつになっても話すことがでず、長者は深く悲しみました。あるとき長者は子どもを連れて、四天王寺の建立のため訪れていた聖徳太子に会いに行きました。太子がその子に向かい「前世に預けた三つの毘婆尸(びばし)仏の舎利を返しなさい」と言うと、その子は三つの仏舎利を吐いて太子に奉り、話すことができるようになりました。太子は仏舎利の2粒を四天王寺と法隆寺に納め、残り1粒を長者に渡しました。長者は感謝してその舎利を納めるためにお堂を建立し、舎利寺と名づけました。その後寺は荒廃し太子堂だけになりましたが、江戸初期の寛文年中(1670年ごろ)徳川家綱の命を受け、黄檗宗の木庵和尚とその弟子悦山和尚が再興をしました。その後再び荒廃した寺を建て直したのが幸道和尚(1852年)で、今に残る「西国33ヵ所観音霊場巡拝碑」などを建立しました。

【参考文献】
『浪速叢書第7 摂津名所図会巻之6』 船越 政一郎編纂校訂 浪速叢書刊行会 1927 書誌ID 0000329652
『東成郡誌 上巻』 東成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0070093555 p501〜502
『生野区史』大阪市生野区役所 1953 書誌ID 0000244943 p225〜226
『大阪史蹟辞典』 三善 貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
『大阪人物辞典』 三善 貞司編 清文堂出版 2000 書誌ID 0000832804
『郷土誌生野 8号より 舎利寺の石造物』加藤 政一[執筆] 郷土誌いくの刊行会 [1991] 書誌ID 0090011434
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疎開道路について

 御幸森神社の前を南北に通っている、豊里矢田線(旧中道桑津線)の通称です。『東成区史』*1によると「第三次都市計画事業として計画決定した中道桑津線は、市内空襲の可能性が生じてきたため、昭和十九年に決戦態勢の一環として緊急に建物疎開(強制疎開)が施行され、一般に疎開道路といわれた。」とあります。また『猪飼野郷土誌』*2には「終戦直後の疎開道路は、まだ割れた瓦と壁土で蒲鉾型に盛り上がった幅広い、自転車も通りにくい荒れた道で、子供等の遊び場にすぎなかった。(中略)道路として本格的に利用される様になったのは、中央に二車線の舗装がされてからで、戦後長い事じみちのままだった」とありますが、1956(昭和31)年発行の『鶴橋小学校八十年の歩み』*3には「最近舗装されて交通量が多くなって来た」と記載されていますので、1955(昭和30)年前後に現在の状態に近くなったようです。

【参考文献】
*1『東成区史』大阪都市協会編 東成区政七十周年記念事業実行委員会 1996 書誌ID 0000623493 p294〜295
*2『猪飼野郷土誌』猪飼野郷土誌編集委員会編 猪飼野保存会 1997 書誌ID 0000607782 p125
*3『鶴橋小学校八十年の歩み』大阪市立鶴橋小学校八十周年記念誌編纂委員会編 大阪市立鶴橋小学校八十周年記念祝賀委員会 1956 書誌ID 0000357748 p224
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俊徳道について

 四天王寺南門付近から、生野区のほぼ中央を東西に横切って俊徳橋を経由し、十三街道と合流して、八尾の高安を結ぶ古道で、俊徳街道といわれています。この街道にまつわる伝説があります。『猪飼野郷土誌』*1には「高安の里、現在の八尾市山畑(やまたけ)という所に信吉(のぶよし)長者という大金持が住んでいた。俊徳丸はその長者の子で、かしこい上に容姿もすぐれていたが、継母のために呪われて(中略)四天王寺境内に捨てられ物乞いをする身となった。ところが以前に俊徳丸が四天王寺の舞楽(ぶがく)童をつとめた姿を見そめて恋仲となった和泉の国の蔭山(かげやま)長者の娘は、その行方をさがし求め、四天王寺で運よくめぐり逢うことができた。そこで俊徳丸を扶(たす)け励まし、二人で観世音菩薩に一心に祈りをこめたところ、娘の熱意が通じて呪いが解け、病が癒(い)えたので二人は夫婦となり蔭山長者の家を継いで幸福に暮らした。(中略)俊徳街道は、この俊徳丸が舞楽修行のため四天王寺にかよった道だといわれている。」と記載されています。
 俊徳丸の物語は謡曲『弱法師(よろぼうし)』や、人形浄瑠璃『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ』として現在まで伝えられています。また近鉄大阪線には、俊徳道駅という駅があり、俊徳道駅と長瀬駅の間を流れている長瀬川沿いにある菱屋西交差点に案内板も設置されています。

【参考文献】
*1『猪飼野郷土誌』猪飼野郷土誌編集委員会編 猪飼野保存会 1997 書誌ID 0000607782 p58
『郷土誌生野1〜12号』郷土誌生野刊行会 1991 書誌ID 0090011434
『大阪府全志巻之4』井上正雄著 清文堂出版 1985 書誌ID 0000172309 p763
『生野の民話』堀井守三編著 生野区役所2000 書誌ID 0000816588 P27〜28
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