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※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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旭区に関するよくある質問と回答

千林(せんばやし)商店街の歴史について

 『旭区史』*1によりますと、p291に「千林商店街」という項目があり、「京街道として位置づけられたのは、明治四十三年に京阪電車が開通してからで・・・・」という記述があります。また、大阪府商店街振興組合連合会のホームページ*2には、紹介文のなかに「明治43年4月15日京阪電軌鉄道が開通して千林駅ができ、商店の数も増え、大正年代の後半より人口が増加し、商業地域へと発展しました。昭和6年市電守口線が、開通、国道一号線も完成し、同年京阪電鉄の軌道敷の移動に伴い千林駅も移転、駅と国道一号線を結ぶ街路の商店街を促進し、これが現在の千林商店街となりました。」とあります。この昭和6年に現在の千林商店街となりましたという記述については、『元気のある商店街の形成』*3のp71からp74にかけて詳しくのべられています。
  戦後の千林商店街については、『パノラマウオーク大阪の商店街 上』*4のp66からp69に千林商店街の項目があり、昭和30年以降の千林商店街が簡潔にまとめられています。

【参考文献】
*1 『旭区史』大阪市都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1981 書誌ID 0070035195
*2 大阪府商店街振興組合連合会ホームページ
http://www.mydo.or.jp/street/063.htm
*3 『元気のある商店街の形成』石村真一著 東方出版 2004 書誌ID 0010711613
*4 『パノラマウオーク大阪の商店街 上』大阪市商業振興企画編 大阪市経済局 1998 書誌ID 0000684575
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赤川(あかがわ)鉄橋について

 『大阪の橋』*1および『大阪工事局40年史』*2によりますと、赤川鉄橋は、正式名称を「城東貨物線淀川橋梁」といい、昭和4年に完成しました。橋の長さは、約610メートルです。大阪市東淀川区東淡路1丁目から対岸の都島区大東町3丁目に架かっている橋です。国土地理院の一万分の一地形図や大阪市の道路地図帳などを見ますと、城東貨物線は都島区と旭区の境界にあり、都島区側に城東貨物線が通っていることが確認できます。
 『都島区史』*3には、このことが、p290に記述されています。この記述のなかに、「貨物線の淀川を渡る鉄橋は、複線分の幅員をもっているが、現在単線運行なので、未利用部は赤川仮橋と名づけ板張りをして歩行者の便に供されている現況である」とあります。対岸である東淀川区の『東淀川区史』*4にも城東貨物線の記述があり、鉄橋の写真に赤川鉄橋という名称が使われています。しかしその一方、『旭区史』*5には、城東貨物線および赤川鉄橋に関する記述は全くありません。
 残念ながら、なぜ「赤川鉄橋」とよばれるようになったのかについての文献は見つけることができませんでした。
 参考までに、旭区役所のホームページ*6には、「区の概要とスポット」「旭のうつりかわり」という項目のなかに城東貨物線赤川鉄橋が紹介されており、写真も掲載されています。

【参考文献】
*1 『大阪の橋』松村博著 松籟社 1987 書誌ID 0000164468
*2 『大阪工事局40年史』日本国有鉄道大阪工事局編 大阪工事局 1968 書誌ID 80207701
*3 『都島区史』大阪市都市協会編 都島区制五十周年記念事業実行委員会 1993 書誌ID 0000336170
*4 『東淀川区史』川端直正編 東淀川区創設三十周年記念事業委員会 1956 書誌ID 0000253623
*5 『旭区史』大阪市都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1981 書誌ID 0070035195
*6 旭区役所ホームページ
http://www.city.osaka.jp/asahi/history/history01_08.html
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千人塚について

 昭和20年6月7日の大空襲は都島、当時の大淀、旭、東淀川区を中心に大きな被害をもたらし、20万人近い罹災者を出しました。その空襲での死者数万人のうち、身元不明の約千数百の遺体が城北公園裏の淀川堤に集められ荼毘(だび)に付されました。犠牲者の冥福を祈り、故東浦栄二郎さんが庭石に「千人つか」と刻んでその跡に置いたのが千人塚の始まりです。『旭区史』*1、『大阪史蹟辞典』*2には詳しい記載があり「市内のいたるところに、遺体が散乱し、まさに地獄絵さながらの状態で…」と当時の悲惨な状況を伝えています。この日の空襲の状況については『新修大阪市史 第7巻』*3で詳しく知ることができます。
 現在石碑は淀川堤上に移され、「日本未曽有の大敗戦の昭和20年6月7日残存せる大阪を壊滅せる大空襲により…」という由来記を刻んだ台座の上に置かれています。『旭区‐花夢いっぱい私のふるさと‐』*4や、旭区役所ホームページ*5の区の概要とスポットの項などで写真もご覧いただけます。

【参考文献】
*1 『旭区史』大阪市都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実行委員会 1981 書誌ID 0070035195 p226
*2 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986書誌ID 0000214926 p348
*3 『新修大阪市史 第7巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1994 書誌ID 0000400903 p725〜728
*4 『旭区‐花夢いっぱい私のふるさと‐』大阪市旭区役所 1993 書誌ID 0000485782 p10
*5 旭区役所ホームページ>区の概要スポット>区のスポット
  
http://www.city.osaka.jp/asahi/outline/spot01.html  (2007年3月9日確認)
『大阪奈良戦争遺跡歴史ガイドマップ3』平和のための大阪の戦争展実行委員会共著 日本機関紙出版センター 2004
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強頸絶間(こわくびのたえま)について

 『日本書紀』に、武蔵の人強頸が人柱にされたとある淀川茨田堤の決壊地のこと。
 『日本書紀』*1仁徳天皇11年10条に「又将に北の河の澇(こみ)を防かむとして、茨田堤を築く。是の時に、両処の築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。」と、茨田堤と強頸、衫子絶間についての伝承が見られます。そのあらすじは、淀川の水害を避けるために茨田に堤を築いたが、二ヶ所の難所があって、築いてもすぐに壊れて塞ぐことができない。この時、天皇の夢に神が現れて、「武蔵の人強頸と河内の人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人を川の神に捧げたなら、必ず塞ぐことができよう」と教えた。武蔵の強頸は泣き悲しんで川に沈んで死に、難所の一ヶ所の堤は完成した。しかし、河内の衫子は瓢箪を二つ川に投げ入れ、「この瓢箪を水の中に沈めることができれば、本当の神のお告げと思って私は水の中に入る。瓢箪を沈めることができなければ、それは偽りの神のお告げであると判断する。」と言った。すると突風が起こり、瓢箪を水の中に引き入れようとするが、瓢箪は浪の上を転がるだけで沈まず、急流にただよいながら流れ去った。それで衫子は助かり、その難所の堤も完成した。その二ヶ所を強頸絶間、衫子絶間といった、というものです。
 茨田堤が築かれた場所について、『旭区史』*2によれば、いまの守口から今市を経て毛馬に至る淀川左岸という説と、寝屋川の北端・太間(古くは絶間)付近から南へ、門真、大和田を経て茨田町に至る古川という二説があります。『大阪史蹟辞典』*3にも同様の記述があります。
 また、強頸絶間の所在については、「強頸の方は海に近い千林あたりで、当時はこのあたりは海岸に近く、波が押し寄せる難所だったらしい。」『旭区史』*2とあります。『日本歴史地名大系 28-[1]大阪府の地名1』*4には「強頸絶間跡は千林村字一の絶間、衫子絶間跡は茨田郡太間村(現寝屋川市)に比定されているが確証はない。」とされていますが、『大阪府全史』*5の大字千林の項では「往時に於ける茨田堤の末に当れる所にして、絶間の池あり、強頸絶間の址なり。」とあり、『角川日本地名大辞典27 大阪府』*6でも、「現在の旭区の千林町に比定される」としています。
 この伝承にもとづいた強頸絶間跡碑が千林2丁目、千林商店街三井住友銀行北側にありますが、個人宅邸内にあるため見学はできません。『旭区‐花夢いっぱい私のふるさと‐』*7や、旭区役所ホームページ*8の区の概要とスポットの項などで写真をご覧いただけます。

【参考文献】
*1 『日本書紀2』 坂本 太郎[ほか]校注 岩波書店 2003 書誌ID 0010607202
*2 『旭区史』大阪都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195
*3 『大阪史蹟辞典』三善 貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*4 『日本歴史地名大系 28-[1]大阪府の地名1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512
*5 『大阪府全志 巻之3』井上 正雄著 清文堂 1985 書誌ID 0000172308
*6 『角川日本地名大辞典27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1986 書誌ID 0000184865
*7 『旭区』大阪市旭区役所 1995 書誌ID 0000485782
*8 旭区役所ホームページ>区の概要スポット>区のスポット
http://www.city.osaka.jp/asahi/outline/spot01.html  (2008年1月30日確認)
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森小路遺跡について調べたい

 森小路遺跡は、新森中央公園を中心に半径300mの範囲に広がる弥生時代中期から古墳時代にかけての集落遺跡です。発見された当時は、市内最低平地遺跡(標高2.8m)として注目されました。『旭区史』*1によると、昭和6年5月、土地区画整理事業中に新森2丁目から清水1丁目にかけて発見された遺跡で、石包丁、石斧、石槍、石錐などのほか、弥生式土器、須恵器などが多数発掘され、その土器から弥生中期前葉の遺跡と推定されたとあります。現在、新森中央公園内に大阪市顕彰史跡を示す「森小路遺跡」の碑が建てられていますが、当時この地は淀川の沖積作用によってできた河内潟の三角州の一部であったと推測されています。
 『新修大阪市史 1巻』*2によると、遺跡からは櫛描文が主流の弥生式土器、表面に人物の姿を先刻した土器片、集落の前面に広がる河内潟から採取したであろうセタシジミやハマグリなどの貝殻の他、イノシシやシカの骨も出土しており、狩猟をおこなっていたか、あるいは物々交換によって入手したのであろうと記載されています。また、昭和60年には、河内の二上山に産出するサヌカイトを用いた見事な打製石剣が発見されました。 2004年に発行された『新修大阪市史 史料編1巻 考古史料編』*3には、遺跡・遺溝・遺物に関して詳細な記述があり、方形周溝墓も含めて写真も数点載せられています。その他、『葦火 6号』に「森小路遺跡出土の打製短剣」、『葦火 11号』に「森小路遺跡出土の木製品」、『葦火 29号』に「森小路遺跡出土の近江型甕」、『葦火 50号』には「森小路遺跡の胴剣形石剣」についてそれぞれ記述されています。
 なお、旭区民センター内にある郷土資料室には、遺跡で発見された出土品の一部が展示されています。

【参考文献】
*1『旭区史』大阪都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195 p223〜224
*2『新修大阪市史 1巻』新修大阪市史編纂委員会編 大阪市 1988 書誌ID 0000342129 p279〜284
*3『新修大阪市史 史料編 1巻 考古資料編』大阪市史編纂所編 大阪市 2004 書誌ID 00106915972 p148〜155, p606〜609
*4『なにわ考古学散歩』大阪市文化財協会編 学生社 2007 書誌ID 0011551653 p265〜272
*5『大阪史跡散歩-大阪市内』高橋敬蔵著 大阪市婦人会館友の会 1977 書誌ID 0070095886
*6『大阪の歴史と風土』宮本又次著 毎日放送 1973 書誌ID 0000253664
*7『歴史の散歩道』大阪市土木技術協会 1994 書誌ID 0000394150
*8『葦火 1986-94年 1-50号』(製本雑誌) 大阪市文化財協会 書誌ID 5200001615
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平田(へいた)の渡しについて

 平田の渡しは、1676 (延宝4) 年頃、現在の東淀川区豊里と旭区太子橋を結ぶ個人経営の渡し舟として発足しました。「平田」の名の由来については、渡守(わたしもり)の平太が経営にあたったからだとか、大坂町奉行から認可を受けて手広く渡船業を営んだ土豪澤田佐平太の名から取ったものではないかといわれていますが*1、渡しのあった地名(西成郡平太村)から来たとも考えられています*2。1907(明治40)年に府営となり、当時の渡し賃はおとな2銭、こども1銭、牛馬4銭で、1日の利用客は約100人ほどでした*3。1929(昭和14)年に豊里村が大阪市に編入されたのに伴い市営となり無料になりました。戦後、周辺の市街地化で利用者が増え、20人乗りの手漕ぎ船から、1960(昭和35)年には発動機船を就航させるに至りました。『旭区史』*3によれば、最盛期には1日に約3000人の乗客と670台の自動車を運んでいました。しかし1970(昭和45)年3月豊里大橋の完成により、淀川最後の渡しとなった平田の渡しも290余年の歴史を閉じました。現在東淀川区と旭区の両岸に平田の渡し跡碑が建てられています。  江戸時代には、この平田の渡しと、淀川のさらに下流にあった源八の渡しの名をもじって作られた、関口平太と新道源八という人物が登場する歌舞伎脚本『三十石■始(さんじっこくよふねのはじまり)』が上演されました*4。このことからも渡しが当時の人々に親しまれていたことが伺われます。
  ※ ■:「舟」+「登」(表示できない漢字です)
【参考文献】
*1 『淀川流域の伝承』三善貞司著 大阪市淀川区役所 2004 書誌ID 0010805369
*2 『大阪市渡船場マップ』大阪市建設局渡船事務所 2000 書誌ID 0000818246
*3 『旭区史』大阪都市協会編 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195
*4 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店 1983 書誌ID 0000184865
『なにわ橋づくし』露の五郎著 朝日新聞社 1988 書誌ID 0000243163
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淀川わんどについて

 「わんど」は、淀川の両岸に見られる池や湾状の地形のことです。『あさひまちがたり』*1によると、明治初期に行われた淀川大改修の際に設けられた水制(船がとおれるよう、水流を中央部に集めるため、両岸から垂直に築かれた石積み)が元となり、その水制の間に自然に土砂が溜まってできたもので、特に旭区内に多く見られます。大きさは学校のグラウンド程度、深さも最深部で2m前後でそれほど大きなものではありません。とあります。わんどは生物の宝庫でもあり、『旭区史』*2には、淀川に生息する魚は、約60種といわれ、全国でもっとも魚類の多い河川である。淀川水系で絶滅したとみられていたイタセンパラが赤川鉄橋下流左岸わんどでみつかり、1974年(昭和49年)3月に国の天然記念物に指定された。鳥類はオオヨシキリ、ヒバリなど水辺の鳥を中心に177種類の鳥が観察され、昆虫も約500種類など、そのほとんどが、河川敷のわんどに生息していると紹介されています。しかし、このわんどが河川改修や河川敷公園づくりで、つぎつぎ姿を消してゆき(1970年には、約500個所あったものが、1984年には、65個所)生物の生息が危ぶまれてきたことより、「人工わんど」の建設も始められています。『淀川かわあるき』*3には、城北わんどや計画的につくられた牧野わんどなどが、写真と共にアクセスガイド・地図入りで紹介されています。
 その他、旭区役所開催の「知って得する旭学講座」を受講された方々と作成された『ぶらり探訪旭の見どころ・知りどころ』*4にも、淀川・わんどの紹介がされています。また児童向けには『淀川-教材資料-』*5があります。『淀川-自然と歴史-』*6には、わんどに生息する魚類・昆虫・鳥類を含めたわんどの環境、保全、保存等が、詳しく述べられています。

【参考文献】
*1 『あさひまちがたり』大阪市旭区役所企画総務課 2001 書誌ID 0010140229
*2 『旭区史』大阪都市協会編集 旭区創設五十周年記念事業実施委員会 1983 書誌ID 0070035195
*3 『淀川かわあるき』淀川ガイドブック編集委員会編集 読売連合広告社 2008 書誌ID 0011600214
*4 『ぶらり探訪旭の見どころ・知りどころ』 大阪市旭区役所 2006 書誌ID 0011374601
*5 『淀川-教材資料-』大阪・淀川教材研究会 2003 書誌ID 0010590430
*6 『淀川-自然と歴史-』鉄川精〔ほか〕著 松籟社 1979 書誌ID 0000253630
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