大阪市立図書館:鶴見区に関するよくある質問と回答
大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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鶴見区に関するよくある質問と回答
鶴見緑地の中に心斎橋があると聞きました。どんな橋か見てみたいのですが、写真はありますか
「大阪市の北東部、鶴見区と守口市にまたがり、わが国でも最大クラスの計画面積を誇る総合都市公園・鶴見緑地。・・・大阪市をとりまく四大緑地として、その緑ゆたかな環境やバラエティに富んだ施設で広く市民に親しまれています」(『鶴見緑地』*1より)。『大阪春秋95号』*2p68に「花博記念公園鶴見緑地について」という記事があり、主な施設の紹介がされています。『大阪春秋89号』*3p34にも「鶴見緑地造成と花の万博」という記事があり、緑地誕生の経緯や、平成2年に開催された「国際花と緑の博覧会」の様子などを知ることができます。
『鶴見緑地』*1には緑地内の写真が紹介されていますが、その中に初代心斎橋を移築したすずかけ橋の写真があります。
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【参考文献】
*1 『鶴見緑地』 大阪市交通局 198- 書誌ID 0010788177
*2 『大阪春秋 95号 おおさかの公園』大阪春秋社 1999 書誌 ID0000746464
*3 『大阪春秋 89号 城東・鶴見』 大阪春秋社 1997 書誌ID 0000649852
茨田(まった)堤について、どこにあったのでしょうか?
日本書紀に記述されている茨田堤は、淀川の水害を防ぐため築かれたものということです。『大阪春秋89号』*1のp14に茨田堤についての記述があり、p16には茨田堤の推定位置の載った略図も付記されています。
また『鶴見区昔ばなし』*2のp41にも解説文、p15に推測図があります。『鶴見区昔ばなし』には、「茨田堤の位置は、上手は枚方市伊加賀付近から太間、池田、堤根神社へとわずかに残っている古堤とされている」とあります。
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【参考文献】
*1 『大阪春秋89号 城東・鶴見』 大阪春秋社 1997 書誌ID 0000649852
*2 『鶴見区昔ばなし』 赤坂敏行著 ローカル通信社 1984 書誌ID 0070117924
鶴見区の名前の由来について
『城東区史』*1のp471、『鶴見区昔ばなし』*2のp13に記述があります。「言い伝えによると、昔、源頼朝が富士の裾野で巻狩をした時、千羽の鶴に金の短冊をつけて放したところ、この地に飛来して住みついたという。その鶴を見物に来る人が多く、鶴見という呼び名ができたという。」また一説には、「旧中高野街道が八剣神社、現在の阿遅速雄神社(あぢはやおじんじゃ)の前を通っている関係から、古来より剣街道と称しており、その剣=ツルギが転訛してツルミ=鶴見となったという。」また『角川日本地名大辞典 27 大阪府』」*3のp1338には「茨田湿地が、古来ツルの群棲地として知られていたことによる。」などの諸説があります。おそらくこれらの諸説の混成したものであろうといわれています。
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【参考文献】
*1 『城東区史』城東区史編纂委員会 1974 書誌ID 0000246500
*2 『鶴見区昔ばなし』赤坂敏行著 ローカル社 1984 書誌ID 0070117924
*3 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川日本地名大辞典編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865
『わが町つるみ』大阪市鶴見区役所 1989 書誌ID 0000555873
放出(はなてん)の地名の由来について
地名の由来については様々な説があります。
まず『角川日本地名大辞典27 大阪府』*1によると、(当地付近で諸河川が流入してできた)「大湖沼の放出口であったことにちなむと思われる。」とあります。
さらに、『鶴見区昔ばなし』*2には次の5つの説が挙がっています。
1 ハナデ説 放出は、難波入江に突出していたから、鼻出とか端出と言われた。
2 ハナチデ・ハナチデン説 放出の地域は、榎並庄から離れた所に存在していたので、ハナチデ・ハナチイデの俗称がつけられた。
3 牧場説 宮殿の外にある馬の飼育場を放出(はなてん)と称した。当地は難波宮の放出であった。
4 樋門説 仁徳紀の頃、大和川の氾濫を防ぐため、当地に樋門を設け、水を放(はな)ち出していた。
5 神社縁起 天智天皇のとき僧道行が熱田社の神剣を盗んで逃げる途中、船が難破しそうになり、難波入江へ神剣を放り出して逃亡した。それ以後、当地の地名となった。
*2の4と5の説については『日本歴史地名大系28- [1] 大阪府の地名1』*3にも同様の記述があります。
また*3には当地が河川のほとりの牧場であったため、牛馬を放ったことに由来する、との説も挙げられています。
なお、読みの変遷については*3から、応永三三年(一四二六)の文書に「はなちて」とあり、近世の史料には「はなちで」「はなちでん」「はなつて」などと記されていたことが分かります。その後について*2では、「明治二十八年(一八九五)、駅名をハナテンとしたので、ハナテンの呼称が広がり現在に至っている」とされています。
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【参考文献】
*1 『角川日本地名大辞典27 大阪府』「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 角川書店 1983 書誌ID 0000184865 p984
*2 『鶴見区昔ばなし』赤坂敏行著 ローカル通信社 1984 書誌ID 0070117924 p18〜19
*3 『日本歴史地名大系28-[1] 大阪府の地名1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512 p632
阿遅速雄(あちはやお)神社のお蔭燈籠について
『お蔭参りとお蔭燈籠』*1によると、伊勢神宮の式年にかこつけて、ほぼ六十年の周期で流行したのがお蔭参りです。そして、各村々で大神宮への献灯を建て、棹石に「おかげ」と彫ってそれを記念したのがお蔭燈籠です。阿遅速雄神社のものは、高さ約三.〇m、「慶應四(1868)年戊辰三月、太神宮、おかけ」と刻まれています。ただ、慶應のお蔭参りは、打ちこわしとか世直し一揆とかいう一種の秩序打破の革命運動と結びついていて、それまでのものとは大分意味の違うものでした。『大阪史蹟辞典』*2にも同様の記述があります。また、『鶴見区昔ばなし』*3は、お蔭参りの資料はほとんど残っていないが、稲田八幡宮(東大阪市)、阿遅速雄神社、比枝神社などの「お可げ燈ろう」は貴重な文化財であるとしています。
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【参考文献】
*1 『お蔭参りとお蔭灯篭』牧村史陽著 史陽選集刊行会 1970 書誌ID 0080209079
*2 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p10〜11
*3 『鶴見区昔ばなし』 赤坂敏行著 ローカル通信社 1984 書誌ID 0070117924 p385