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大阪市立図書館 OSAKA Municipal Library
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※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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平野区に関するよくある質問と回答

平野区にある”町ぐるみ博物館”について知りたい

 正式には、「平野・町ぐるみ博物館」という名称で、平成5年に「平野のまちづくりを考える会」が始めたミニ博物館運動です。町民が館長となり自宅や職場を開放して、家業にまつわる珍しい物や、自ら集めた趣味の品を展示して、運営者と訪問者とのコミュニケーションを通して、地域の再発見をめざす運動です。博物館は、平野映像資料館、自転車屋さん博物館など、現在15あります。
 1枚もの地図で、「平野の町づくりを考える会」発行の『平野町ぐるみ博物館』というものがあり、平野図書館では、希望者に配布しています。
下記のホームページにも「平野町ぐるみ博物館」の記載があります。  ・おもろいで平野
  
http://www.omoroide.com/em/home_em.html (2006年4月15日確認)

【参考文献】
 一部の博物館を記載
『ひらの魅力探訪』改訂版 平野区役所 2000 書誌ID 0000803789 p24〜26
『平野区をまるごと遊ぼう。』三田征彦著 まちをテーマに本をつくろう会 2003 書誌ID 0010715118
『大阪人 2001年8月号 平野郷を遊ぶ』大阪都市協会 2001 書誌ID 5110049066 p33〜37
『平野区誌』平野区誌編集委員会編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212 p296
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平野区には古い民家がいくつも残っているが、それについて知りたい

 平野区には、農家住宅(重要文化財である加美の奥田家など)や町家風の住宅(築後およそ250年を越す豪商だった末吉家、工場主だった明治期の戎井(えびすい)家そして酒井家や藤岡家など)、古い民家が数多く残されています。
 『平野区誌』*1には、「平野のくらし篇 第3章平野の民家」として、各家の写真と図面も記載された、詳しい記述があります。ただし、民家の名称は、アルファベット(例 A家B家)となっていて、その所有者の名は伏せられています。

【参考文献】
*1 『平野区誌』  平野区誌編集委員会編  平野区誌刊行委員会 2005  書誌ID 00110041212
『平野の町並み』観光資源保護財団 1986 書誌ID 0000598706(中央図書館所蔵) 『新修大阪市史 3巻』新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1989 書誌ID 0000342137 p1075〜1090 第5章第6節 大阪三郷と平野郷の構成と町屋と農家の家構え
『大阪春秋 14号』大阪春秋社 1977 書誌ID 0070052019 p124〜129 には”奥田家”
『大阪春秋 44号 八尾・平野・中河内』大阪春秋社 1985 書誌ID 0090000395 p12〜26 には”末吉家”
『大阪人 2001年8月号 平野郷を遊ぶ』大阪都市協会 2001 書誌ID 5110049066 p39〜47
『大阪人 2003年10月号 古民家探訪』大阪都市協会 2003 書誌ID 5110594980 p24〜27,33〜41
『平野の歴史とまちづくりを考える-資料-』大阪都市環境会議資料編集 1980 書誌ID 0010040104 p9〜12
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昔、平野にあった環濠について

 大阪市のホームページにある「平野区」の中の「平野うぉ〜くらり〜」-加美*1には、 とあります。
 資料としては,『東住吉区史』*2 『平野区誌』*3などにも、同様の記載があります。各種資料に掲載されている「摂州平野大絵図」(宝暦13 1763年)には、この頃の環濠が描かれています。
 平野図書館で”町ぐるみ博物館”を尋ねられた利用者の方に配布している『平野町ぐるみ博物館』*4と題したマップには、現在の地図上に、かっての環濠の位置図があります。
 前述の”大阪市のホームページにある平野区”の中や『平野区誌』(p314)には、現存する杭全神社東側(=杭全公園北側)に残る環濠跡の写真が掲載されています。
 また、『きらめきの再百見』*5には、「濠の間に各方面に通じる13の木戸がおかれ、門や地蔵堂があった」とあり、1ヶ所を除き、現在もこれらの場所に祀られている地蔵尊の写真が掲載されています。
 なお、かっては喜連地区にもあったとされる環濠については,『平野区をまるごと遊ぼう。』*6に記載されています。

【参考文献】
*1 「平野区」の中の「平野うぉ〜くらり〜」-加美
 
http://www.city.osaka.lg.jp/hirano/page/0000001705.html
*2 『東住吉区史』 川端直正編  東住吉区創設一五周年四ヵ村編入三周年記念事業委員会  1961 書誌ID 0000301758 p58〜59
*3 『平野区誌』 平野区誌編集委員会編 平野区誌刊行委員会  2005  書誌ID 0011041212
*4 『平野町ぐるみ博物館』  2004  未登録
*5 『きらめきの再百見』 平野区コミュニティ協会  1994  書誌ID 0000460588 p22〜23
*6 『平野区をまるごと遊ぼう。』 三田征彦編  まちをテーマに本をつくろう会  2003  書誌ID 0010715118  p120〜121
『平野郷町誌』清文堂出版 1991 書誌ID 0000196608
『おもろいで平野』平野の町づくりを考える会編集 和泉書院 書誌ID 0000484114 p43 杭全神社東側の環濠跡の写真
『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p530
『歴史の散歩道 4 大阪 平野郷コース』後藤仁郎 1980 書誌ID 0080205031
『大阪春秋 44号 八尾・平野・中河内』大阪春秋社 1985 書誌ID 0090000395 p42〜45 ”平野十三口地蔵尊”
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「区の花」”わた”について

 昭和61年7月に、「区の花」を決めるのに、意見が募集され、「わたの花」が「区の花」に選定されました。
 これは、江戸時代、平野の代表的産業が、綿の生産と河内木綿の生産であったこと、綿の集散地として栄え、明治時代には、綿業の町に発展した歴史があるからです。美しい花が咲き、実を結び、そして白い柔らかい綿が生まれます。花のあとの実益ある実には、平野区の繁栄の願いが込められています。“わた”は、アオイ科の1年草で、高さは、60センチメートルから1メートルぐらい、花は黄色が多く、白、紅色などもあります。
 綿業の歴史については、『平野区誌』*1のp166〜168に、また、わたの実から木綿になる過程の作業については、『ひらののわた』*2、『ワタの絵本』*3にくわしく載っています。また、平成11年に市民グループ「平野わたの会」が発足しています。平野区の「わた」の普及・啓発や、「河内木綿」の糸紡ぎから布織りまでの技術の継承を目標に活動されていることが、『ひらのまち図鑑2001』*4 p68〜69に紹介されています。

【参考文献】
*1 『平野区誌』平野区誌編集委員会編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212
*2 『ひらののわた』 平野区緑化推進本部 [1989] 書誌ID 0000836903
*3 『ワタの絵本』(そだててあそぼう10) ひび あきら編 農山漁村文化協会 1998 書誌ID 0000674204
*4 『ひらのまち図鑑2001』 平野区役所企画総務課 2001 書誌ID 0010201767
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平野にある「大念仏寺」について

 大念仏寺は、平野区平野上町一丁目にある融通念佛宗(ゆうづうねんぶつしゅう)の総本山で、宗祖は平安時代の良忍(りょうにん)上人といわれています。幾度かの火災で荒廃しましたが、元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整いました。本堂は大阪府内で最大規模の木造建築です。良忍上人の肖像や本堂の写真は『平野区誌』*1で見ることができます。境内の諸堂、その他の建築物については『平野郷』*2に記述があります。
 大阪市指定無形文化財に指定されている伝統行事である「万部(まんぶ)おねり」(阿弥陀経万部会菩薩練供養)は、毎年5月1日から5日まで催されます。本堂裏から正面にかけて来迎橋が作られ、金襴の装束に金色の面をつけた菩薩たちと阿弥陀如来が本尊の天得如来画像を捧げながら橋を渡り本堂に入ります。「万部おねり」については「大念仏寺の公式ホームページ」*5や『平野区誌』*1に写真が掲載されています。
 所蔵している文化財としては、国宝「毛詩鄭箋(もうしていせん)残巻」が菅原道真の直筆とされ有名です。また、他の重要文化財をしのいで夏場に話題となるのは絹地に見事な刺繍の縫い取りがある茶系統の小袖の片方「亡女(もうにょ)の片袖」(『大阪史蹟辞典』*3によれば「幽霊の片袖」)や数々の幽霊の掛け軸です。これらは毎年7月の第4日曜日に一般に公開されます。『ひらの町ぐるみ博物館マップ』*4に詳しいのですが、旧平野本郷と呼ばれる平野のまちには、大念仏寺、別名「幽霊博物館」をはじめとして、「浮世絵とやきもの博物館」「平野映像資料館」「小さな駄菓子やさん博物館」など当時の姿を伝える町並みや建物が一般に公開されています。

【参考文献】
*1 『平野区誌』平野区誌編集委員会 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212
*2 『平野郷』平野振興会 平野振興会 1980 書誌ID 0000244921
*3 『大阪史蹟辞典』三善貞二 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*4 『ひらの町ぐるみ博物館マップ』 平野のまちづくりを考える会 199- 書誌ID 0011524072
*5 大念仏寺のホームページアドレス
http://www.dainenbutsuji.com/index.html
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平野で行われている連歌について

 平野区の杭全神社で毎月一度、連歌所を使って行われている月次(つきなみ)連歌が、知られています。これは、昭和62年(1987年)、藤江正謹(まさのり)宮司を中心に、「平野の町づくりを考える会」によって、当時、京都女子大学教授の浜千代清氏、大阪大学教授の島津忠夫氏を招いて連歌についての講演会と連歌の実作の会が催され、それを機会に行われるようになり、毎年、桜の盛りの四月の第一日曜日には、「花の下(もと)連歌」が行われています。連歌会の参加者である連衆には、藤江宮司をはじめ、京阪神の連歌研究者が参加し、現在に続いています。平成5年(1993年)には、それまでの月次連歌や花の下連歌の作品をはじめ、杭全神社の連歌史などをまとめた『平野法楽連歌 過去と現在』*1が刊行されています。また、平野の中世末から近世にかけての平野の連歌の歴史については、『平野区誌』*2や『平野郷町誌』*3にも記載されています。
 杭全神社の連歌所は、宝永5年(1708年)に再興当時の建物が現存し、日本でただひとつ残るものであり、現在、大阪市の有形文化財に指定されていますが、今なお、連歌会のために使われていることが何より貴重です。連歌所については、再興時の歴史や、建物内部の説明が『大阪史跡辞典』*4や『平野区誌』*2に掲載されています。
 藤江宮司の発案でインターネット連歌も開かれています。「杭全神社 連歌」とアクセスすれば、誰でも自由に連歌を楽しむことができます。また、平野区では、毎月、大阪市立平野図書館で連歌会が開かれており、区民が参加できる場が提供されています。

【参考文献】
*1 『平野法楽連歌-過去と現在-』杭全神社編 和泉書院 1993 書誌ID 0000380107
*2 『平野区誌』平野区誌編集委員会編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212
*3 『平野郷町誌』平野郷公益会刊(1931)の復刻版 清文堂出版 1991 書誌ID 0000196608
*4 『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版1986 書誌ID 0000214926
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赤留比売命(あかるひめみこと)神社について

 「三十歩(さんじゅうぶ)神社」とも呼ばれています。『平野区誌』*1と『大阪史蹟辞典』*2によると名称の由来は三つあります。応永年間(1394〜1428年)に旱魃(かんばつ)がおこった際、覚証(かくしょう)上人が祈雨のため法華経30部を社殿で読誦し、霊験があったことから「三十部神社」と呼ばれたのち「部」が「歩」と変化した、または祭神の赤留比売命(あかるひめのみこと)が住吉大社の姉神から「三十町歩を分け与える」と言われたのを「三十歩」と聞き違えたため、あるいは社地が三十歩しかなかったためといわれています。
 祭神は、新羅から難波に渡来した女神、赤留比売(あかるひめ)です。住吉大社の祭神と姉妹であるという説から住吉大社の末社となりました。『摂津名所図会』*3の住吉大神社・名寄の項に「三十歩神祠(さんじゅうぶのやしろ)平野郷中野堂町にあり。[延喜式]に曰く、赤留比賣命(あかるひめみこと)神社。・・・」と記述があります。住吉大社の神事である「荒和大祓(あらにごおおはらえ)」の際、平野郷の末吉家をはじめとする七名家が神役をつとめました。1914(大正3)年からは杭全神社の境外末社になっています。
 祭神の赤留比売命は四天王寺ワッソに登場するお姫様であることから、四天王寺ワッソの関連行事として、地元商店街・町会などが協力して、赤留比売命らが当時の装束でパレードをする「平野古代市」を毎年開催しています。

【参考文献】
*1 『平野区誌』 平野区誌刊行委員会 2007 書誌ID 001141212
*2 『大阪史蹟辞典』 三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*3 『摂津名所図会 上』 秋里籬島著 臨川書店 1974 書誌ID 0080191209
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大阪府女子師範学校(現大阪教育大学)について

 『附高平野創立三十年史』*1によりますと、1922(大正11)年、南区天王寺北山・小宮(通称桃山、現在の大阪府立夕陽丘高校がある場所)にあった大阪府女子師範学校(現大阪教育大学)が火災に遭いました。そのため、焼失部分の改築だけでなく将来の発展を考えて郊外へ移転することになり、1927(昭和2)年、住吉区平野流町(現在の平野区流町)に移転しました。平野郷町が土地約六千坪の提供と附属小学校・幼稚園の建築費の半額(『平野郷』*2によれば14万円)の寄付を申し出て大阪府知事に受納された結果です。女子師範学校に附属していた小学校と幼稚園も移転してきました。『平野区誌』*3によれば、この附属幼稚園と1927(昭和2)年に開園した常磐会(ときわかい)幼稚園が地域の幼児教育普及に影響を与えています。常磐会は大阪府師範学校女子部(大阪府女子師範学校の前身)と大阪府女子師範学校の同窓生によって1905(明治38)年に作られた同窓会です。
 上記を含めて、大阪の師範学校の歴史は『ふよう』*4に詳しく載っています。
 1943(昭和18)年、師範教育令改正により、大阪府女子師範学校は天王寺師範学校と統合されて大阪第一師範学校女子部に、天王寺師範学校は大阪第一師範学校男子部になりました。1948(昭和23)年からは共学になり、平野学部、天王寺学部となりました。1949(昭和24)年に大阪第二師範学校(もと池田師範学校)と統合されて、それぞれ大阪学芸大学池田分校・平野分校・天王寺分校に、1967(昭和42)年に大阪教育大学と改称しました。
 1993(平成5)年、当時平野区唯一の大学であった大阪教育大学は3分校が統一され柏原市に移転しましたが、附属幼稚園・小学校・中学校・高等学校は現在も平野区流町にあります。

【参考文献】
*1『附高平野創立三十年史』大阪教育大学教育学部附属高等学校平野校舎創立三十周年記念事業委員会 2001 書誌ID 0011117956
*2『平野郷』 平野振興会編 平野振興会 1980 書誌ID 0000244921
*3『平野区誌』平野区誌編集委員会編 平野区誌刊行委員会 2005 書誌ID 0011041212
*4『ふよう』創立100周年記念誌編集委員会編集 大阪教育大学教育学部附属幼稚園 1993 書誌ID 0000817643
   国立大学法人大阪教育大学ホームページ
http://osaka-kyoiku.ac.jp/university/index.html
    (2009年1月24日確認)
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