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※ 各区やわが町・大阪について、図書館でよくお尋ねのある質問と回答を区毎にまとめてみました。
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西成区に関するよくある質問と回答

勝間(こつま)街道について

 勝間(こつま)街道は、江戸時代に栄えた、難波から木津を経て粉浜中在家で紀州街道と合流する、南北に走る街道です。広義では、当時の道頓堀を西へ橋を渡り鉄眼寺・木津の大黒社を経て願泉寺西を住吉に至るものですが、一般に願泉寺南の法華茶屋から南へ下る筋が勝間街道と呼ばれていました。西成区玉出町は大正4年まで勝間(こつま)村と呼ばれており、村を貫くこの街道は、江戸時代には紀州街道の側道として往来が盛んでした。昭和15年に勝間街道に添うように国道26号線ができたため、昔のにぎわいはなくなり街道の名も語り草となりつつありますが、今も街道筋には昔の面影を残す地蔵堂があります。
 地図では、『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』*1のp.179、125、126によると、現在のJR環状線今宮駅の東南から住吉区東粉浜一丁目と二丁目堺の交差点までを結んでいます。
 『日本歴史地名大系 28-[1]大阪府の地名 1』*2の付図「大阪市街図」にも、木津村から粉浜中在家に至る勝間街道らしきものがみとめられますが、街道名は明示されていません。
 『西成郡史-全-』*3付図にも、勝間街道に該当すると思われる道が記載されていますが、街道名は明示されていません。

【参考文献】
*1 『大阪市の旧街道と坂道:増補再版』旧街道等調査委員会編 大阪市土木技術協会 1987 書誌ID 0000250661
*2 『日本歴史地名大系 28-[1]大阪府の地名 1』平凡社 1986 書誌ID 0000156512
*3 『西成郡史-全-』西成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0000246505
 以下の資料にも関連する記述があります。
『西成区史』川端直正編 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431 p.95 付:白黒写真
『西成の歴史:訂補』津村喜一郎著 1990 書誌ID 0070104373 付:写真のコピー
『にしなり再発見-西成区制70周年記念-』西成区制70周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID0000496015    p.19 付:カラー写真
『西成郡史-全-』西成郡役所編 名著出版 1972 書誌ID 0000246505 p.614
『粉浜村誌』粉浜村誌編纂委員会 1927 書誌ID0000389431 p.136
『移りゆく住よし』石田稔・石田和美共著 [石田稔] 1988 書誌ID 0080238977 p.161
『今宮町志』今宮町編 大阪府西成郡今宮町残務所 1926 書誌ID 0000244964 p.319,323
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「だいがく」について

 「だいがく」は台舁・台額・台楽などと表記され、夏祭に出される山車の一種です。形状は、太鼓を乗せた台の中央に約30メートルの縦棒を建てて9本の横棒を渡し、それに提灯を14〜16個づつ並べて掛け、先端には鉾をつけたもので、重さは約7.5トンもあり、かつては約80〜100人でかついで練り歩きました。戦前は大阪市内、府下の神社で数多く見られましたが、今は西成区玉出の生根神社のものだけになり、大阪府指定有形文化財に指定されています。しかし生根神社のだいがくも、現在では境内に据え付けられたままで、小さく作り替えた「だいがく」で巡行しています。
 その由来については、『祭礼行事-都道府県別-[27]大阪府』*1のp.72「玉出のだいがく祭り」の項に、「(前略)この祭りの由来は清和天皇の時代(八五八〜八七五)に旱魃がひどく、この地の農民が住吉の竜神、大海神社の前で、日本六十六ケ国の一の宮の御神燈六十六張と鈴六十六個をつけた高さ十八間の櫓を建て、雨乞いの祈願をしたところ、たちどころに雨が降ったので農民は喜び、これに台をつけて舁き、太鼓を打って氏地を巡行したのが始まりという。(後略)」と記載されています。
 『玉出のだいがく-生根神社「だいがく祭り」調査報告書-』*2には「だいがく」のカラー写真や実測図面も記載され、生根神社の「だいがく祭り」について詳説されています。

【参考文献】
*1 『祭礼行事-都道府県別-[27]大阪府』高橋秀雄編 桜楓社 1993 書誌ID 0000307051
*2 『玉出のだいがく-生根神社「だいがく祭り」調査報告書-』生根神社 2003 書誌ID 0010745522
以下の資料にも関連する記述があります。
『座談会玉出を語る会の記録』[大阪市]西成区役所総務課 1994 書誌ID0000410166 p.12〜18とp.41〜43   付:絵・イラスト図
『西成の歴史 訂補』津村喜一郎著 1990 書誌ID 0070104373 付:写真のコピー
『大阪十二月物語-近世の大坂風物詩-』渡辺忠司著 リサイクル文化社大阪編集室 2001書誌ID 0010095074 p.79〜82 付:絵図・写真のコピー
『西成区史』川端直正編 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID0070080431 p.333〜335  付:白黒写真
『大阪ことば事典:新版』牧村史陽編 講談社 2004 書誌ID0010865148 p.397〜398 付:絵図
『木津川清話』辻昭二郎著 金剛出版 1989 書誌ID 0000200801  p.205〜206
『にしなり再発見-西成区制70周年記念-』西成区制70周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID 0000496015  p.8 付:カラー写真
『大阪の祭り』大阪府神道青年会編 大阪府神道青年会 1980 書誌ID 0070054160 p.56
『大阪百景-写真集-』福島明博著 大月書店 1993 書誌ID 0000300221 p.100 付:カラー写真
『大阪史蹟辞典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926 p.30
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天下茶屋跡について

 天下茶屋の地名の発祥となった天下茶屋跡は、西成区岸里東2丁目にあります。ここは、旧住吉街道沿にある天神の森天満宮から西に少しはいったところにあります。 天神の森は、千利休の師に当たる武野紹鷗(じょうおう)がこの地に涌く水を好んで茶室を設け、昼なお暗い森を開いて道をつけたとも言われているところから、森は紹鴎の森ともよばれていました。 その紹鴎の森の西側を開き、天正年間(1573〜92)に代々小兵衛を名乗る芽木(めぎ)家の芽木小兵衛光立という楠木正行十世の孫と称される方が、茶店を出されました。
 天下茶屋といわれる由来としては、三代目昌立の頃の話になりますが、『大阪史蹟事典』*1のp426〜427の「天下茶屋跡」の項に、「(前略)折りしも豊臣秀吉が住吉神社参拝の時(異説堺政所へ行く途中)立寄り、随行していた千利休がこの茶店の清泉を汲んで茶をたてたところ味の良さに満足し、この泉に「恵の水」の名と年に玄米三十俵の朱印を与えたそうで、それから殿下茶屋、天下茶屋の名が起こったといわれる。(後略)」と記載されています。
 芽木家が所蔵されていた由来を示す茶器、茶釜、茶室などは、戦災で焼失されました。また天下茶屋跡は、大阪市顕彰史跡にもされており昔を偲ばせるくすのきの大樹の下に石碑が建てられています。『座談会 紀州街道天下茶屋を語る会の記録』*2を見ますと、芽木家の子孫の方の談話から戦前の様子など知ることができます。地図で場所を確認するには、『西成区コミュニティマップ』*3などに史跡の位置と紹介がでています。

【参考文献】
*1『大阪史蹟事典』三善貞司編 清文堂出版 1986 書誌ID 0000214926
*2 『座談会紀州街道天下茶屋を語る会の記録』西成区役所総務課 1994書誌ID 0000466067p8〜10
*3 『西成区コミュニティマップ』西成区コミュニティ協会 1990 書誌ID 0000606919
『紀州街道』上方史跡散策の会著 向陽書房 2004 書誌ID 0010858353 p47〜49
『にしなり再発見―西成区制70周年記念』西成区制70周年記念事業実行委員会 1995 書誌ID 0000496015 p5
『大阪市の旧街道と坂道』旧街道等調査委員会編 大阪市土木技術協会 1987 書誌ID 0000250661 p118〜119
『大阪市の文化財改訂第7版』大阪市文化財協会編 大阪市教育委員会 1997 書誌ID 0000663420 p122
『今宮町志』今宮町編 大阪府西成郡今宮町残務所 1926 書誌ID 0000244964 p347〜348
『大阪府西成郡玉出町誌』大阪府西成郡玉出町役場 1924 書誌ID 0080239319 p190
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津守にあった十三間堀川(じゅうさんげんぼりがわ)について

 現在西成区内を通過する阪神高速堺線は、昭和45(1970)年に十三間堀川(十三間川とも呼ばれます)を埋め立てて建設されています*1。
 現在の津守地域(旧津守村)は、江戸時代に海を埋め立てた津守新田として拓かれた土地です。その津守新田の開発開始と同じ元禄11(1698)年に、津守新田の北端を流れる木津川から、用水路として津守新田の東側を南へ向けて新たに開削されたのが十三間堀川でした。最初は中在家村(粉浜村)までの開削でしたが、その後宝永元(1704)年の大和川付替工事に伴い大和川にまでつながることとなりました。そしてこの結果川の流れが変わり、大和川から北へ流れ木津川へと合流する流れとなりました。治水工事で有名な河村瑞軒の設計による運河だという説も伝わっていますが、開削当時の検地帳により津守新田の地主の費用で開削されたものであることが確認されています*2。
 十三間堀川(十三間川)の名の由来は、川幅が十三間(一間は約1.8メートル)あったこととされていますが、少なくとも津守新田の人々は十間堀と呼んでいたという記録があり、十三間の川幅があったとすると住吉高灯籠辺りから南の地域ではなかったかと言われています。
 明治時代までは大きな舟を浮かべて川遊びや物流にも使われ、土手には松の並木が続く大きな川でしたが、次第に川底に砂がたまり、また土手が崩れるなどして川幅が狭くなっていきました。昭和2(1927)年刊行の『津守村誌』には、「今は幅員僅かに三間乃至五六間に過ぎず…流水は混濁して、一見下水溝の如き状態」*3と記されています。こうした川の状況と津守地域が低湿地であることから大きな高潮被害が続いたため、現地の強い要望を受けて昭和30(1955)年までには防潮堤・ポンプ場が完成しています。
 十三間堀川から東へ流れる支流として長橋川・大流川などがあり用水や運搬にも使われていましたが、十三間堀川の枯渇もあり、それぞれ現在の長橋通・梅通として十三間堀川よりずっと早くに埋め立てられています。

【参考文献】
*1 『大阪春秋19号』p56〜60 「十三間堀川の開削から埋め立てまで:付近の歴史散歩」大阪春秋社 1979 書誌ID 0070052023
*2 『西成区史』p105〜107 川端直正編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431
『浪速区史』p124〜125 川端 直正編集 浪速区創設三十周年記念事業委員会 1957 書誌ID 0000246444
*3 『津守村誌』p9〜11 袖下徳三郎編著 津守村誌編纂事務所 1927 書誌ID 0000299896
この他、以下にも関連記述があります。
『大阪春秋11号』 p79〜p80 「埋め立てられた川と橋(完)−大阪守口線・大阪堺線も水路跡」大阪春秋社 1976 書誌ID 0090012815
『白山家のあゆみ』 白山殖産株式会社[編] 白山殖産 1984 書誌ID 0080191306(江戸時代から津守新田の運営を行ってきた白山家の記録。津守新田と関係の深かった十三間堀川に触れる記述が見られます。)
『座談会津守を語る会の記録』 [大阪市]西成区役所総務課[編]] [大阪市]西成区役所総務課 [1992] 書誌ID 0000281618(土地の古老の回顧座談会の記録。明治・大正の頃には、十三間堀川にもフナが棲み、その水を飲料水としても用いていた、また江戸時代には橋がひとつしかかかっていなかったなど興味深いエピソードが紹介されています)
『西成・わがまち:写真でみる西成の今昔』 大阪市都市整備協会編集 大阪市建設局 1990 書誌ID 0000225294(p34に埋め立て少し前の昭和39(1964)年と昭和41(1966)年の十三間堀川の写真が掲載されています)
『西成区政誌:創設二十五周年記念』 大阪市西成区役所編輯 西成区民クラブ 1951書誌ID 0000376027
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日露戦争当時の天下茶屋に捕虜収容所があったと聞いたが、どこにあった、どんな施設だったのか?

 天下茶屋の捕虜収容所(当時は「俘虜収容所」)については、約2ヶ月間の存在だったことや、その後の耕地整理等で跡地の姿がまったく変わったこともあり、具体的な資料がほとんど残っていませんが、わずかに残されている資料を基に、大まかな位置を推測することは可能です。
 まず新聞記事*1の記述から得られる施設の変遷を次に示します。
 その後、同年7月に新たな捕虜が来阪していますが、天下茶屋のこの施設に収容されることはなく、「天下茶屋の捕虜収容所」は、わずか2ヶ月ほどの存在でした。
 施設の位置や建物の概要についても、写真や図面などの資料は残っておらず、わずかに新聞記事が次のように伝えているだけです。
 大体の位置として「天下茶屋停車場(現在の南海本線天下茶屋駅)のやや北西方向で現在の南海本線の線路の西側一帯」という情報が得られますが、敷地の形はわかりませんのでどの辺りまでが収容所の敷地だったのかはわかりません。
 ただ、敷地の西側と北側の限界については、次のように推測することは可能でしょう。
<西側の限界>
 現在の南海本線の線路の西側がほとんどが畑地だった当時の状況の中で勝間街道(現在の橘小学校の東側の南北の道路)は江戸時代以来の重要道路として現在まで伝わっていますから、これを破壊して勝間街道の西側まで収容所の敷地が伸びていたわけではないでしょう。
<北側の限界>
 現在の花園交差点東北角にある弘治小学校の大正(1912年〜1926年)の頃を描いた絵地図*2の中に「天井の高いバラック建」が描かれ、その説明として「元ロシア人俘虜収容所の建物を天下茶屋より移築したもの」とあることから、現在の花園交差点の辺りは収容所の敷地には含まれていなかったことになります。
 試みに、東西を南海本線と勝間街道、南北を天下茶屋駅を通る東西の線と花園交差点を通る東西の線に区切られた地域の面積を地図から求めると概ね8万坪となります。新聞記事では収容所の面積は約6万坪とあり、面積の上でも矛盾しませんから収容所がこの範囲内にあったと想定でき、この範囲の約4分の3を占める、極端に長細くはない敷地だったと推測されます。
 なおこの敷地は、陸軍予備病院分院としての活用の後、1909年1月に払下許可がおりて陸軍省から元の地主に返還され、今宮第一耕地整理組合事業(1910年2月〜1911年4月)によって、道路・水路を整然と整理した区画として生まれ変わり、次の時代の宅地化へと備えることとなります*3。

【参考文献】
*1 新聞記事による記述は、次の資料掲載のものを参考にまとめています。
『西成区史』 川端直正編集 西成区市域編入四〇周年記念事業委員会 1968 書誌ID 0070080431 p42〜44
『新修大阪市史第6巻 新修大阪市史編纂委員会編集 大阪市 1994 書誌ID 0000427809 803〜805
『高石市史』第1巻 高石市史編纂会編集 高石市 1989 書誌ID0000768995 p912〜914
*2 『弘治:大阪市立弘治小学校創立80周年記念誌』 大阪市立弘治小学校80周年記念誌委員会編 大阪市立弘治小学校 1979書誌ID0090004760 p12
*3 『今宮町志』今宮町編纂大阪府西成郡今宮町残務所 1926 書誌 ID0000244964 p264〜266
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